断じてそうではない。あらゆる人を偽り者としても、神を真実なものとすべきである。それは、 「あなたが言葉を述べるときは、義とせられ、 あなたがさばきを受けるとき、勝利を得るため」 と書いてあるとおりである。
わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、 あなたの前に悪い事を行いました。 それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、 あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
わたしは驚きあわてたときに言った、 「すべての人は当にならぬ者である」と。
しかし、キリストにあって義とされることを求めることによって、わたしたち自身が罪人であるとされるのなら、キリストは罪に仕える者なのであろうか。断じてそうではない。
それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。
偽りのない神が永遠の昔に約束された永遠のいのちの望みに基くのである。
主は岩であって、そのみわざは全く、 その道はみな正しい。 主は真実なる神であって、偽りなく、 義であって、正である。
わたしは遠くからわが知識を取り、 わが造り主に正義を帰する。
しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
あなたのみ言葉の全体は真理です。 あなたの正しいおきてのすべては とこしえに絶えることはありません。
ヒラデルヒヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。 『聖なる者、まことなる者、ダビデのかぎを持つ者、開けばだれにも閉じられることがなく、閉じればだれにも開かれることのない者が、次のように言われる。
さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。
では、わたしたちはなんと言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
わたしはあなたの聖なる宮にむかって伏し拝み、 あなたのいつくしみと、まこととのゆえに、 み名に感謝します。 あなたはそのみ名と、み言葉を すべてのものにまさって高くされたからです。
昔からわれわれの先祖たちに誓われたように、 真実をヤコブに示し、 いつくしみをアブラハムに示される。
主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、 そのまことはよろず代に及ぶからである。
神の子を信じる者は、自分のうちにこのあかしを持っている。神を信じない者は、神を偽り者とする。神が御子についてあかしせられたそのあかしを、信じていないからである。
わたしは、神の恵みを無にはしない。もし、義が律法によって得られるとすれば、キリストの死はむだであったことになる。
それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法を確立するのである。
また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。
あなたはなお、わたしに責任を負わそうとするのか。 あなたはわたしを非とし、 自分を是としようとするのか。
しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。
そこで、わたしは問う、「神はその民を捨てたのであろうか」。断じてそうではない。わたしもイスラエル人であり、アブラハムの子孫、ベニヤミン族の者である。
低い人はむなしく、高い人は偽りである。 彼らをはかりにおけば、彼らは共に息よりも軽い。
神の真実にかけて言うが、あなたがたに対するわたしの言葉は、「しかり」と同時に、「否」というようなものではない。
そこで、わたしは問う、「彼らがつまずいたのは、倒れるためであったのか」。断じてそうではない。かえって、彼らの罪過によって、救が異邦人に及び、それによってイスラエルを奮起させるためである。
それでは、わたしたちは、なんと言おうか。律法は罪なのか。断じてそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったであろう。すなわち、もし律法が「むさぼるな」と言わなかったら、わたしはむさぼりなるものを知らなかったであろう。
断じてそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
彼は出てきて、この農夫たちを殺し、ぶどう園を他の人々に与えるであろう」。人々はこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。
では、善なるものが、わたしにとって死となったのか。断じてそうではない。それはむしろ、罪の罪たることが現れるための、罪のしわざである。すなわち、罪は、戒めによって、はなはだしく悪性なものとなるために、善なるものによってわたしを死に至らせたのである。
あなたがたは自分のからだがキリストの肢体であることを、知らないのか。それだのに、キリストの肢体を取って遊女の肢体としてよいのか。断じていけない。
確かに偉大なのは、この信心の奥義である、 「キリストは肉において現れ、 霊において義とせられ、 御使たちに見られ、 諸国民の間に伝えられ、 世界の中で信じられ、 栄光のうちに天に上げられた」。